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福島からの訴え!(54)

希望の牧場代表/浪江町 吉沢正巳さん

 原発事故で立ち入りが禁じられた警戒区域には「3・11」時点で約3500頭の牛がいた。避難命令で大半の農家が牛を見捨てて逃げるしかなかった。「餓死させるのはかわいそう」と野放しにした農家が結構いたけど、一時帰宅した人から「野良牛が迷惑」と苦情が出て、殺処分に同意せざるを得なかった。結局、約1500頭が牛舎につながれたまま餓死、約1400頭が殺処分、合わせて約3千頭が殺された。
 だけど今も浪江町や富岡町、大熊町、双葉町で約10軒の農家が抵抗して牛を生かしている。
 うちの牧場はもともと約330頭で和牛の肥育・繁殖をしていた。3・11後、栄養失調や事故で約150頭が死んだけど、ほかの農家に頼まれた牛を引き取り、自ら歩いてきた迷い牛を入れてやった。新しく生まれた牛もいて、今は約350頭。地上1㍍の空間線量は大体、毎時3マイクロシーベルト。ひどい場所は6~7マイクロシーベルトある。

 11年「3・11」当日夜にはもう原発がおかしくなっていたけれど、国や東電は浪江町に情報を一切提供しなかった。その中で12日朝、浪江町長が防災無線で「25㌔先の津島に逃げよう」と呼びかけた。請戸(うけど)港は津波の被害がひどくて助けを呼ぶ声もまだあったのに、見捨てて逃げざるを得なかった。約9千人が12~14日まで津島に避難したけれど、14日の3号機爆発で津島には大量の放射能が降りそそいだ。その日、おれはこの牛舎で原発が爆発した音を聞いたんだよ。
 15日に町民は総崩れとなって、今度は二本松市東和(とうわ)に避難した。その渦中もおれは二本松市と牧場を行き来して、検問所のおまわりと言い合って「牛は水を飲まなきゃ死んじゃう。だからおれは行く」と無理やり通ったんだ。
 だけどその15日に、大熊町にあったオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)が逃げ出してしまった。敵前逃亡だ。腰抜けの原子力安全・保安院は何もできなかったんだ。
 そして17日。牧場から第一原発を双眼鏡で見ていたら、ヘリコプターの放水でぶわっと白い水蒸気が上がった。放水作業をしている自衛隊員は何人か死ぬかもしれないと思ったよ。だけどこの危機を抑え込むために闘う心意気が必要だ。それで「東電に気合いを入れなきゃいけない」と思って、宣伝カーで東京に向けて出発した。その時にヘリコプターから見えるように牛舎の屋根と道路、タンクにスプレーで「決死救命を、団結!」と書いたんだよ。
 18日に東電本店に乗り込み、わあわあ泣きながら「牛が死んじまう」と東電の総務主任に訴えたよ。「自分たちがつくった原発が爆発したのに、なんでお前らは逃げちゃうんだ。今はとにかく命をかけても水をかけることが必要だ。おれならホースを持って原子炉建屋に飛び込んでいくよ。闘え」と。総務主任も泣き出しちゃった。気合いがちゃんと伝わって、来てよかったと思ったよ。
 それからは牛を放し飼いにして、餌を3日に1度運んだ。周りの牧場で牛が餓死していく地獄の光景を見て、「自分の牛舎ではそんなことはできない」と思った。警察がつくったバリケードを壊してのりこえたり、裏道から運んだり。警察に何回も連れて行かれて、始末書みたいなのも5~6枚書かされたけど、「自分の牛に餌を運ぶのがどうして犯罪なんだ」と。
 5月に政府が牛の殺処分を指示してからはなおさら「国の言いなりになんか絶対にならない」と思った。「野良牛にさせないため電気牧柵(ぼくさく)が必要だ」と交渉して、11年12月に電気を復旧させたのと同時に仮設住宅も引き払い、それから1年以上、警戒区域で暮らしている。
 役場や警察、オフサイトセンターとは日々やり合いを続けてきた。「殺処分・餓死はやめよう/希望の牛達を生かして」と書いた看板を出したら「目的外立ち入りだ。片付けないと立ち入り許可証を出さない」と言われた。「『マスコミの同行取材はさせない』ことに同意しろ」と求められたこともある。この国は報道の自由のひとかけらもない恐ろしい国だ。福島の真実を隠すのはすべて再稼働のための動きだ。
 おれ自身も被曝はしている。ホールボディ検査を15~16回やって、最高で6600ベクレルあった。だけどセシウムの排出を促す水を大量に飲んだりして、今はセシウム134も137も300ベクレルまで落ちたよ。

 浪江町は原発立地を許さなかった土地だ。1960年代から東北電力の浪江・小高原子力発電所建設計画があったけれど、住民の長い反対運動で建設を阻んできた。
 しかしその浪江町がチェルノブイリになってしまった。うちで作ったしいたけは4万ベクレルあった。東電に行った時に「お前らのせいだ。おみやげだ」と言って置いてきたよ。ここで作った米も野菜も山菜も、おれが生きている限り食えないだろう。
 多くの避難者が「津波の被害者を見殺しにしてしまった」と泣きながら悩んできたし、今もむなしさや絶望感を抱えている。いまだに墓石も倒れたままで、亡くなっても納骨もできない。家は傾き、床にはきのこが生えている。請戸港なんて木っ端みじんに粉砕されたままだ。町のアンケートに「生きている意味がない。死にたい」と書いた人もいるし、自殺する人も何人か出ている。
 おれは緊急避難の大混乱の中で逃げた人たちを非難するつもりはまったくない。だけどおれたちみたいに牛の世話を続けている農家もあっていいと思う。どの選択が正しいなんて決めつけることではないと思っている。
 東電による牛の補償は昨年度末で終わったからこの牛はもはや何の金にもならない。だけどおれは一生ベコ屋だ。残りの人生すべて、原発事故被害の生きた証拠である被曝牛を生かしながら放射能と闘い、国と東電と闘っていく。被曝の現実を忘れさせずに国や東電の責任を追及していく。
 希望の牧場のスローガンは「決死救命、団結!
 そして希望へ」。深い絶望の町・浪江で「希望」を掲げるというのは、背伸びしている面もある。だけどこの地で原発事故の被害を訴え続けることが、おれなりの抵抗運動なんだ。この牛は日本全国と全世界に再稼働阻止を訴える抗議のシンボルだ。
 3・11以降、渋谷駅前の街宣に40回くらい行った。「東京への電力供給のためにこんな目にあってしまった浪江の無念を考えてほしい」と訴え、希望の牧場へのカンパを呼びかける。聞きながら泣き出す人もいるし、カンパ箱に1万円札が入る時もある。
 全国の原発立地自治体でも浪江の現実を訴えて回っている。柏崎刈羽原発のゲート前でも「おれはチェルノブイリになっちまった浪江から来た。次はお前らの番だよ」とがんがん訴えてきた。告発し続けないと風化させられてしまう。だから東京でも全国でも宣伝カーで訴え続けるんだ。

 今年は再稼働をめぐる勝負の年だ。反対運動の実力が問われる。経産省前テントひろばもぶっつぶしにくるかもしれない。そういう時に、最終的には実力阻止という気構えを持って闘わなきゃいけない。被曝牛を生かして国と東電の責任を追及し続け、原発をなんとしてもなくす連帯運動をつくる。おれの人生にはもうそれしかない。
 今は世代も党派も越えて、一点、原発をなくすために広範な連帯運動をつくらなきゃいけない。おれたちの本気の行動によって道はつくられるし、希望は生まれると確信している。
 3月11日はおれも牛とともに福島市に駆けつけます。全国のみなさん、力を合わせましょう。
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プロフィール
動労千葉を支援する会・習志野  国鉄分割・民営化で解雇された動労千葉組合員の解雇撤回をかちとるために、2010年9月、千葉県習志野市で働く公務員労働者を中心に結成。①動労千葉争議団を支援するための物資販売、②宮城や福島などの被災地支援、③職場で労働者が胸を張って働けるように闘っています。          職場新聞『風雲』を発行。

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